

歌垣は中国のみならずアジア全域に見られる文化である。ラオスやタイ、ベトナムなど。日本にも平安時代には貴族だけでなく、一般的な風習だったらしい。平安時代以降は廃れた、みたいな書かれ方をするが地方では明治時代までは残っていたらしい。
『音楽』の発生に関して「リズムが先かメロディーが先か」と言う疑問が長い間、行われている。非常に不毛な問いだと思う。リズムと言うのは双方の『約束事』であり、『メロディー』は観念だ。そして人間は『観念』無しには生きていけない動物だ。
動物や昆虫にも「求愛」はある。それはダンスだったり、何らかの行為だったり。歌う求愛で身近な生き物と言えば蝉や蛙、鈴虫などである。犬や猫はどちらかと言えば「襲う」に近い。
『猫』は発情している雌猫に雄が「ガバっ!」と襲い掛かる。その際は首根っこを噛む(暴れないように)。
愛撫に関しては馬や犬などが有名である。猫の「首根っこを噛む」と行為も愛撫になるらしい(雌猫は其れで相当に「感じる」らしい)。
馬の場合は中々、凝っている。
●タテガミを優しく撫でる(顎で)
●アソコを嗅ぐ
●女性(雌)はオシッコをぶっ掛ける
其処で双方「ムラムラ!」となるだとか。
私が大好きな『クジラ』は歌の文化が可也のレベルで進んでいる。求愛の歌、一人で寂しい時の歌、仲間同士の歌、子守唄などなど。だが実際の行為に関しては基本的に「レイプ」に近い。
以前、ベトナムの奥地の歌垣の写真を見た事がある。女性は民族衣装で華やかに飾り、男性はオシャレしてくる。オシャレと言ってもベトナムの奥地なのでアイテムが限られるので、せいぜい『サングラス』程度だが(「俺って西洋の映画俳優みたいだろ?」)。
思うのだが『歌垣』に代表されるように『歌』と言うのは・・・音楽と言うのは・・・現在のように大きな音量で行われる物ではなく、本来は
自分だけ
または
少数の共同体
の為にあるのではないだろうか?世に言う『民族音楽』と言うモノの大半は実は「宮廷音楽」だったりする。宗教的なモノが背景にあったりもするが、ようするに金持ちのBGMである。実際、クラシックなどはそうやって生き延びてきたワケだし、インド音楽もそうだ。ガムランも元は宮廷音楽で、其れを侵略者でもあり、観光者でもあったオランダ人用にエキゾチックにアレンジされたものである。
『口琴』と言う楽器がある。手の平サイズの小さな楽器である。口に咥えて「ビョ~ン」と言うだけの楽器で音量は勿論、小さい。世界中にある楽器なのだが用途は世界中、決まっている。すわ
一人で演奏する時
または
異性を口説く時
夏の夜。女の子が寝ている。其処へ愛しい男性が「ビヨーン♪」とやる。『口琴』と言う楽器は演奏者の体格や体質、口の形や歯並びで可也、音が変わる。
「あ!●●君だわ!」
と言うワケで、それに対して女性も『口琴』で音を返す。で、
致して
らしい。北海道のアイヌ民族は年頃になると浜辺に集まって『ムックリ』と言う口琴を男女間で行う。『歌垣』と同じである。そうやって結婚相手を決めていたんだとか。
そもそも『楽器』は『音楽』と言うモノに対して、考えてみると「胡散臭い」気がするのである。『歌の伴奏』でしかないモノが、どうして主役になるんだ?と。『歌の伴奏』をメインに考えられているので古い民族楽器は相当にシンプルな作りである。
楽器の大音量化は西洋がメインで行われている。例えば家庭にあるピアノですら、弾き方で可也の音量を稼ぐ事が出来るし、パイプオルガンは良い例だ。
それは『音楽』と言うモノが『個人的な』ものではなく、ある種、『特権的』な体質を帯びてきた歴史と言う気がしてならない。
勿論、西洋にも『吟遊詩人』なるものがいて庶民の人気を得ていたが『楽器』を所有しているのは『プロ演奏者』だけであり『歌』は相変わらず庶民の手の内へ。
恐らく『音楽』と言うものは元々、聴くものではなく『歌うもの』だったんではないだろうか。宗教的な背景を元に「神様に歌う」と言うのも多かっただろうが、24時間365日、神様の事ばかり考えられるほど暇ではない。
私は幼い頃から友人が居なかった。学校帰りは一人で登下校していた。今もそうだが当時もチビで痩せ。ランドセルが重たかった。一人で歩く田舎道は相当に寂しかった。
ある日、歌いながら帰ってみようと思った。歌える曲は少ない。確かTVアニメの『小公女セーラ』の主題歌と再放送の『キャンディ・キャンディ』しか全曲通して歌えなかった。
歌いながら帰ると帰り道が楽しくなった。それから「声変わり」を迎えるまでいつも歌いながら帰っていた。
私の「音楽履歴」を書こうとすれば最初は之だったのかも知れない。
高校時代にDJに憧れたりしたのは、矢張り『音楽』と言うモノが持つ『特権性』に憧れたワケである。理由は良く判らないが『音楽』と言うのが『特権的』だと思っていた。
『KO.DO.NA』と言うユニットを始めた頃。トランペットにミュートを付ける事が常だった。tpは大音量楽器だ。そうではなく囁くように、と思ったからである。大きな音で伝えるのではなく小さな音で伝える。そう考えてである。
最近は大音量になって来たが気持ちの変化と、伝えたい事の内容が変わってきたからである。
私は『音楽』にしろ、それを取り巻く全ての『特権性』を引き摺り降ろしたいと思っている。
だからと言ってキチガイやメンヘラーを相手にするのではなく、もっと違う方法で。『音楽』はステージにいる人物が行う神聖な儀式ではなく、パンクのように暴力や一定の年齢層だけが共有できる狭い範囲ではなく、本来の形にまで引き摺り降ろしたいと思う。
戻したい、ではなく「引き摺り下ろしたい」のである。
本来『ステージに上がる』と言う行為は異常な事だったはずである。ステージ上の人物は「畏敬」「異形」の人物だったはずである。
第二次世界大戦直後の1946年。『素人喉自慢大会』がラジオで放送が始まった。その際の参加希望者は予選だけで予定枠の30倍以上も集まったらしい。
そしてお客の数も半端ではなかったらしくチケットにプレミアがついた程だったんだとか。
恐らく戦争を生き延びた、と言う事自体が既に「異常」「異形」だったのではないだろうか。そして其の「異形」を共有したいと思う人が大半だったんではないだろうか。昨年まで全国民が「死ぬ」事を命令されていた時代である。
歌は軍歌や戦前の歌謡曲が多かったらしいが、本当は何でも良かったのだろう。それは歓喜の歌であり、喜びに歌詞は必ずしも必要ではない。
明後日はライブ。即興演奏ではあるが、其れが『音楽』の本来の姿に近づければな、と思う。『現在音楽』と言うモノに対してアンチを唱える事が出来ればな、と。
ライブをオファーした際。『円盤』の田口氏は「このテ(即興系の)のイベントは好きじゃない」と言った。
田口氏に敵意はないし、田口氏の功績を十分に評価するし、彼が目指す音楽のあり方が違う事は判る。だが私は『円盤』と言う場所に代表される『インディーズ』的なモノも引き摺り降ろしたい。
ホンとそう思うし、そう言う活動をしているつもりである。生意気だけども、そうなんだもの。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動がるれ
★ライブ★
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2009年2月12日(木)
19時~
高円寺『円盤』
http://www.enban.org/
イベント名:École d'Tokyo
チャージ:1000円
出演:
●キャル・ライア(g)、 KO.DO.NA(tp、org)、Cat-rat(ピアノ?)
●池上秀夫(cntrabass)
●soundworm+金子由布樹
皆様、ご来場を御願い致します・・・。
KO.DO.NA:http://kodona.web.fc2.com/
Cat-rat's:http://www.cat-rat.net/new.htm
test tone: www.test-tone.com
池上秀夫:http://homepage3.nifty.com/contrabassism/
soundworm:http://www.sndwm.com/sndwm/index.html
金子由布樹:http://www.creatorsbank.com/portfolio/index.php?id=kaneko
KO・DO・NA
黒木一隆(TP、ピアニカ)と木ノ下友一郎(エレクトロニクス、ギター)によるユニット。クラブDJ、即興演奏、現代音楽を経て、『劇団唐組』入団。同退団後、劇中音楽作曲やインプロビゼーションを主体とした幾つかのバンドを経て、2002年静寂音響ユニット『KO・DO・NA』を開始。2006年『KO・DO・NA:小人の化学』発売。
舞踏公演『室野井洋子ダンスシリーズ:よあそび』
田山明子ソロ公演
『ウブウブ舞踊団:赤い靴』
『ダンスがみたい!10:インターナショナルシリーズ』
『西麻布スーパーデラック:小鳥達の為に』
等にて演奏。
『西麻布スーパーデラック』でのライブがラトビア共和国の音楽誌『フラッシュ』にて紹介される。西麻布『BULLETS』『スーパーデラックス』『テストトーン』等に不定期出演。舞台音楽から即興演奏、楽曲演奏まで幅広く活動中。
http://kodona.web.fc2.com/index.html
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